あー blog

説明するような内容が皆無

夢から醒めても

昨日はすごく楽しかった。

好きな先輩や先生たちからサインももらったし、こんなに人生は上手くいくこともあるのだろうかという程。1日経ってもスマホを見る度昨日のことが現実だったのだと知れて嬉しくなった。

 

4年間、実は高校生の時に自分は死んでいて今は夢を見ているのではないかと本気で思っていた。

でも何となく昨日のサインを眺めるたび、夢ではなかったんだとこの4年間は現実だったという実感が湧いてきて嬉しくて泣きたくなってくる。「夢が現実で現実が夢で」というどこかの言葉が真実味を帯びた気がした。今の自分にとっては高校時代が夢の様に感じるのだ。どこか遠い世界に。本当にあの田園風景の中に自分がいたことの全てが嘘の様な気がしてくる。

 

私は今、現実を生きている。紛れもなく。そしてこのブログを書き続け、何かを作り続けていく。それにはあと少しピースが足りない。未来の足跡が地鳴りの様に周りから響いて、私の意思とは別のところで何かとてつもなく大きなモノを決定してしまう。私はそれを少しでもキャッチ出来るように色々な音に耳を澄ませていなくてはいけない。未完成なモノでも不恰好なモノでも何かを常に誰かに伝え続けなくてはいけない。何も返事がなくても。

それは私の意思とは別だが、同時に私の本当の願いでもある。ただの地響きを何かのメッセージだと思うのは馬鹿げたことなのかも知れない。けれど、音を聞き続ければ然るべき時に然るべき人と出会えるだろうと願って。

 

私は生きている。生きてるように生きるんだ。

 

 

20240201219:33

最近よく高校時代のことを思い出す。

私にとってはたがだか20数年の人生の中でも一番辛かった時代だ。

原因はよく分からなかったが心が釘で刺されたような痛みが常にあって頭がおかしくなりそうだった。実際におかしくなりかけていたし、精神は悲鳴を上げているのもわかっていた。でもどうしたらいいのか全然分からなかった。解決方法も見当たらなかった。

でも映像を見ている時は救われていると感じることができた。

天国の日々」のモリコーネの音楽を聴いているとなぜか当時のことが頭をよぎる。

一番辛かったのにかけがいのない思い出なのはなんでなんだろう。

大学をもう少しで卒業するが、この後の人生どうなるのか全く分からない。本当に考えていた道が大学卒業で終わっている。そこからは道らしい道なんてなくてだたっ広い地面が広がっている。今が幸福だとするなら、人は幸せになった後どうしたらいいのだろう。自分にとっての楽園がもう少しで終わっていくのを感じる。一瞬の光だったのかもしれない。私はそれを一生抱えて生きていくのかもしれない。日芸を楽しんだ人の一種の苦しみとして。この1年は苦しいものになるような気がする。今までの怠惰を抱えて。

でも今までの日々を振り返り続けるわけにもいかない。これから私は何を見つけて、何を作って、どんな人達と過ごすんだろう。本当は高校の時に死んでいた同然の心を救ってもらったからには映像に少しでも恩返ししていくのが私の仕事なんだと思う。

12歳の頃から漠然と映像に関わるのが私の役割だと思って生きてきた。でもカメラも手にしたことない私がなんでそんなことを10年も飽きずに考えていられたのか、よく分からない。どうして今も好きでい続けられるのか不思議だ。それしか拠り所がなかったといったらそこまでだが、心を揺さぶれる経験は映像以外でしたことがない。そしてこれからも生きていくためには映像を好きでい続けるしかないのだ。ひとつ決まっていることがあるとするならそれしかないだろう。でも映画学科に入ってからも私はカメラを持って作品を作ったことが1度しかない。アニメーションを作って卒業したからだ。正直映像を作ろうとカメラを持った時に、底知れぬ違和感が私に取り憑いて今でもあまり撮影が好きではない。正直、「どうして?」と思った。こんなに好きなのにどうして実写を作れなかったんだろう。ずっと悔しさと悲しさを覚えながら、でも絵を描くのはとても好きで(絵に感動したことは一度もない)、線を引くのが楽しくて気がついたらアニメが完成していた。もちろんアニメに感動したことはある。素晴らしいと感じたことなんていくらでもある。でも実写ほどの衝撃はなかった。

人生はままならいないなと思った。こんな仕打ちをしなくてもいいじゃないかと思った。ある意味アニメーションは好きにならざるを得なかったのだ。

でもまだうまく受け入れられない気持ちが沢山ある。でもこれからは受け入れて、反発できる余地があるならして、自分という人間と上手く付き合っていかなきゃいけない。上手く付き合えた時にしか選択はできない。これからもずっと戦っていくんだろうなと思う。そのうちかけがいのない人とも出会えるんだろうか。30歳の自分は何を考えてるんだろうか。こっからの1年1年は濃いものになる。私もあなたも変わっていく。

きっと。

 

youtu.be

安心して眠る方法

好きな人の庭を想像する

暖かくいい匂いがして春の風が吹いている

猫を想像する

ふかふかしていて毛並みの整った良い猫だ

暖かい手で撫でられる

猫はこの世の幸せはここにしかないような気分になる

それだけで他は何もいらないと思える

それが幸せなのだきっと

確かな幸せの形

私は触れたことがあるのか

ただいつかのミニシアターで私は

必死の形相でスクリーンを眺めながら

スクリーンの中に何かを見出そうとする意思の塊でしかなかった馬鹿な時代

少なくとも上映中は私は幸せだった

張り裂けるような幸せだった

17歳だった

正直私はこれからの幸せが、これ以上の幸せが思い描けない

私の人生はここで停止する

自分ではどうしようもないのだ

勝手に停止するのだから

停止停止停止停止

私は今これ以上のことを考えられないように出来ている

本当に考えられないのだ何も何一つ

何も

貴方の膝の上で寝ること以外は何も

それが叶えられることはない、一生

心の中で美しい物語を作るのだ

その物語がこれからの私の人生なのだ

それはとても危険なことだ

そんなことは分かっているさ

でも今はそうするしかない

朝方に映画を見る。夜中の2時か3時ごろ絡み始めて6時くらいに終わるのが望ましい。

鳥の鳴く音が聞こえて外が明るくなってくる。現実が戻ってくる感じがする。

この時間が世界で一番好きだ。やはり私は映画が好きだ。

 

今日は「死の棘」(1990)をみた。小栗監督の作品は2作目だ。とても良かった。抑えめな音楽と岸辺一徳の演技が特に良かったし、風景と人の切り取り方が素晴らしかった。

 

 

最近10年後のことを想像する。一つ確かなことは、私は10年経っても映画が、映像が好きだということくらいだろう。他は何も分からない。

今は別れを想像すると胸が傷む、明るく絶望している気持ちは前よりも強くなっている。今日の映画でも思ったが、精神を患うと事態が悪化しているのか快方に向かっているのかすらも分からないということ。私は高校の時死んでいて、この4年間は夢を見ているのではないかと思うこともある。

100話 大学

今、大学にいる。

図書館にいる。午後の静かさと誰かが中庭で騒ぐ声が聞こえる。全てが心地よい。気持ち良い天気でちょうど良い温度だ。

あと少しで卒業だ。約半年後には私は大学生ではなくなってしまう。だから大学生のうちに色々なものを繋ぎ止めておかなくてはという謎の焦燥感に駆られている。でも誰も気に留めていない。

それはこの空間が私にだけ作用する特別な空間だからなのだろうか。

 

その焦りですら、今はバイトや他に予定を立てて紛らわすよりもただ愛でていたい様な気がする。

何もかもが失うには惜しく、輝いている。

 

10.12 16:41 

untitled

 全ての自分が辛くならないように、分霊箱みたいに自分の本当に大切にしていた部分を少し大学に残しておこうと思う。

少しをイメージフォーラムに、少しを好きだった人たちの中に。残りを今の自分の中に。今が全てであり、同時にそうではない。今の課題はこの気持ちをどうやって成仏させるかだ。


どうか私のことを忘れないでいて。それが私とココを繋ぎ止めているから。そして映像、私はこれで終わりにさせたりしないからね。あなたには一生かけて付き合ってもらう。私が死ぬまで隣にいてもらう。この莫大な気持ちはこれから10年が本番なんだからね。ここ3年穏やかだった波がまた変わろうとしている。また何かがやってくるのをひしひしと感じる。堂々と待っていよう。

また会う時はあなたの子供で

もしも、また貴方に初めから会うことが出来たらその時は貴方の子供がいい。

そしたら私は今よりも真っ直ぐ真剣に生きて、貴方を見つめながら心からの大好きを言うことができるし貴方にそのままの意味で伝えることが出来る。日常のあらゆる下らなさをどこかへ追いやって静かな場所で過ごす。

それが私の夢である。単なる夢。

 

-ある日、翼が生えたら

「先生は春に死んだ。やけに明るく埃臭い部屋で私は先生と2人だった。本を返しに。体調が悪く家を出るのがやっとの先生のもとに私が尋ねたのは、確か5月の上旬ごろだった。そのあと遺体はどこかへ運ばれ、どこで燃やされ、どこかに埋められた。荷物も先生の彼女らしき人が丁寧な手つきでどこかへ運び出してしまった。2人だけの部屋で色の変わった手に初めて触れた。その時の感触が私の手の中に今でも残っていて美術館の手すりだったり、冷えた鉄骨に触った時に先生を感じた。21年分の生死があの部屋には存在し、今でも私の中で疼いている。

この世界が先生にとって生きるに値しなかったのか、それとも此処とは別の世界を見つけたのかは誰にも分からない。

鳥を見るたびに先生を思い出す。空を飛ぶ夢を見ていた先生に私は恋をしていたのだ。

 

先生はいつも懸命に空を飛ぼうとしていた。手をバタバタさせて辛いような楽しそうな顔をして。私も一緒に手をバタバタさせた。いつしかその姿だけが先生を構成するものになり、先生の実態とは遠いところにいってしまう気さえした。


その瞬間を愛していたのだ。全てが終わってしまった今、私はもう跳ねたり飛んだり出来ない。しない。床にめり込んで、地面と体がピッタリとくっついてしまった。

何年過ぎただろう。隣に落ちた自分の影を見る度にかつて居た天国を思い出す。影の中でしか生きることの出来ないものをかつての私は自分の全てだと信じた。先生もそうだと信じていた。そうだったから、私の元からいなくなってしまったのか。それとも全てが私の幻だったのか。

 

いつしか私の身体からは芽が出た。

空を見渡すと鳥が一羽私を見下ろして、フンをかけてどこかに飛んでいってしまった。生暖かいソレを身体に感じながら、私は彼の生きている世界へいつまでも枝を伸ばしている」

前に書いた超短編です。駄文。

 

今日はミステリと言う勿れ というドラマを見ました。初めて見ました。漫画版だと「雨は俎上に降る」という回です。確かにミステリと言うには、人間の泥臭さが強調されてて良かったです。柄本佑さんの演技が語りすぎなくて、柄本さんの演技と映像の組み合わせに演出の良さを感じました。特に水溜まりに跳ねる雨が2度出てくるのですが、そこがとても良かったです。テレビドラマでの音の少ないシーンはそれだけで印象的です。面白くしようとするとうるさくなってしまいそうなので。それに比べると刑事たちのシーンはうるさすぎ、チープな感じもします。

雨が降って止むまで場所が移動せず男2人が淡々と話すのも好きでした。シナリオは上手くまとまり過ぎているなとも思ったのですがそこはミステリーと言うことで納得しました。

古典的な良さがあるドラマだと思いました。なんか機会があったらまた見たいと思います。

 

ところで、「銭ゲバ」を見終わったのですが、最終回はイマイチでした。幸せの定義を回想で語るのはいただけません。しかも、あんなに一般化された幸せを見せられてもあまり感動出来ません。あんなものは資本主義社会の中で出来た幻想に過ぎません。風太郎の求めていたものは、あんなのに集約されてしまうほどちっぽけなものなんですか。まぁでもそれが風太郎の愚かさだと言われればその通りなのですが。彼はもっと野心的なのかと思ってました。結局金では実体のある幸せを得ることが出来ないと気付きながらもそれを手放す勇気もなかった凡庸な人間なのだなと思いました。(ここまでボロクソ言ってますが、風太郎は本当に魅力的なキャラクターだと思うし、見て良かったと激しく思ったドラマです)

でもそこまでの勢いと流れは目を見張るものがあります。椎名桔平演じるクソ親父が妻の名前を思わず言ってしまうところは最高でした。このノリで椎名桔平の「ヌードの夜」も見たいです。あと、最初の方で出てきた工場の更衣室にいる松山ケンイチがかなりタイプです。松ケンにはもっとああ言う不幸の滲み出した無口な役をやって欲しいと切実に思ってるのですが...最近は本多正信とか逆なんですよね。賢くて面白い役は他に出来る人が一杯いると思うので、出来たらもっと儚い感じの役をやってくれると私の精神が喜びます。

自分で自分を持て余している役というか...大人という概念からは正反対の役をあんなに自然とできる人は中々いない...父親として子供に見せたい役を選んでるとか、そう言うのもあるのかな。だとしたら何も言えない笑 ブルーの役も良かったけど、包帯を巻いてくれる木村文乃に手を出すくらいの駄目人間をやって欲しかった。

 

と話がそれましたが私はこれから作業があるので、では!